21.07.27

 風が強く吹いていて横断歩道の向こうに横に並んでいる人たちの輪郭が高速でぶるぶると震えている。風が全く吹かない地域の人は、アニメのなかでキャラクターの髪や服が風でバタバタと羽ばたいているのを見て何の事態だと思うのだろう。突然ひとの輪郭が高速で揺れ始めるのは明らかに異常事態だ。何か全く別の形のものに変わってしまう前のモーションかもしれない。みな直立不動で無表情なのがなおさら不気味だ。無数の表情を潜ませているはずの顔が、まるで意識を乗っ取られてものになってしまった頭部の単なる凹凸に見えてくる。

21.07.03-07.08

 これはもうほとんど水泳だと思う。どんなに高速移動をしても振り切れないほどの、砂かゴム膜くらいの固体感の湿った空気と霧雨がぜんぶ身体に張りついてきて勘弁してほしい。水ははっきりと界面を持った物体だということがわかる。勢いよく放たれた水は塊となって肩や腰のコリをほぐす。銭湯で茹だりながら、皮膚組織が破れるんじゃないかというくらい強いジャグジーを浴びる。ジャグジー風呂を思いついたひとはきっと水の硬さを知っている。だって高い橋の上から川に落ちたら水の硬さで死んでしまうらしい。鉄砲水が街にやってくればその硬さで家は粉々になって、そのあとはその柔らかさで全部飲み込んでしまう。昔よく犬と泳いで遊んでいた川が氾濫危険水位を超えて、実家の隣町に避難指示が出ているらしい。ツイッターでその川の名前を調べると、小学3年生のころのクラスの担任と同じ苗字のひとが、3年前の豪雨で行方不明になっていることを知る。全国に750人しかいないらしいその苗字のその先生がその人なのかは分からない。

21.06.21-07.02

 何となく日記を書くのがだるくなってしばらく書くのをやめていたらなにを言うにも慎重になってしまってそのうちなにも言えなくなってしまった。日記を書くとき日記のことは書かないようにしようと思っていたけれど調子がおかしいときにそういう自縛をしてよかったことなんかない。頭でばかり考えて動いて心地よい結果になったことなんかない。子供のころなにかを願いながら行動するとき、これはうまくいくはずがない、みたいに望んだのと反対の結果になる想像をするようにしていた。それで準備を周到にするということではなくて、願ったままに欲して行動するとうまくいかなくて嫌な思いをすることが多かったので、それはそういうものなのだとしてまじないをかけるような意味だった。ただのまじないだったけれど、いま思うとそれで頭でっかちになるのをうまくキャンセルして、望んだものに身体を流し込むような感じで、オートマチックによい方へ動けるようになっていたのかもしれない。最終的に身体はなにがよいのか、どちらがよい方向なのか分かっているのだと思う。

 向かいに座っているひとの傘が黄色く、短く、先が丸くなっている。その丸くていかにも無害な先端や制帽とまったく同じ色相の黄色が嫌で、はやく剣みたいに尖った暗い色の傘に持ち替えたくて傘の骨が折れるのが楽しみだった。大学生のころには3,000円くらいのかわいくて強度の優れた傘を3回盗まれた。一目見てわかるような派手な傘をわざわざ選ぶような人間は窃盗業に向いていないので廃業したほうがよいけれど、東京の大学にもわざわざ微妙に高い傘を選んで盗むようなひとがいて、肌がつるつるしていて歯並びがよくてどんなときでもこざっぱりした服を選べて器用にひとと話せて当たり前のように良識を持ち合わせたような感じではないひともここにはいるのだという現実の厚みを感じたけれど、肌がつるつるして歯並びが(中略)持ち合わせたような感じのひとが微妙に高くて柄のかわいい傘をわざわざ選んで盗んでいたらそれはそれで怖いなと思う。そういうひとはそのつるつるのバンドウイルカみたいな身体と盗みたい気持ちをどうやって同居させたのだろう。

21.06.20

 何かを言うことで言いたいことが出てくるし、何かを書くことで書きたいことが出てくる。言うことで言う身体になるし、書くことで書く身体になる。ときに何かを言ったり書いたりすることは、自分のなかにある言葉をひとつ外に出して、わたしと世界の間に放り投げて、その言葉に向かって言葉を捧げてゆく行為なのだと思う。わたしとあなたの間に言葉があって、互いにその言葉を言葉でこねくり回している状態。口内炎があると喋る気がしなくなって一日中押し黙ってしまう。そうしているうちに何もする気がなくなって一日中寝転がってしまう。五感のなかでは触覚がもっとも暴力的にひとに作用する。顔のなかでは口腔がもっとも刺激に対して過敏に反応する。常に動きどこかに触る舌に口内炎ができると、生きることの一部を禁止されているような惨めな気分になってしまう。

21.06.19

 浴室から出るともう家を出る20分前になっていて、どうしてこんなことになったのか訳がわからず混乱した。呼吸を整え、シャワーとドライヤーで火照った身体が冷めたころ、六本木に着く。荒川+ギンズの作品はかなり不気味だと思う。目の前にあるものがいっさい何の比喩にもならないし何も表象していない。ただ岩みたいにがっちりと強制力を持った論理と科学だけがそこにあってそれがこの知覚と身体を作り変えていくみたいな感じ。樫村春香が荒川のことをアトリエの毛沢東と評していたけれどその通りだと思う。歩き方が変わったその足でコメダコーヒーに入って、何の食欲も湧かないのにまだ何も食べていなかったのでサンドを腹に入れるとどんどん腹が空いてくる。食欲が湧かないとき本当はどうすればいいのか分からない。どうしても食欲がないのに、食べることそのものに嫌気が差しているのに、健康を気遣って無理に食べているとき、それはひとの口にパンを押し込んでいるような扱いを自分の身体にしてしまっていることになりはしないのか。

21.06.07-18

 疲れてふて寝を続けていたことしか覚えていない。観たいもの読みたいものやりたいことが多く溜まっていて可能な限りそれらはやるけれどやったらやったでその証跡を何かしら残さなければならないという強迫観念がありその日起きたことなんて覚えていられない。頭の中をまとめるのが苦手でたとえば映画を観てもそれがまとまって他のものとつながって自分のなかで何らかの意味を持ち始めるようになるまで少なくとも一週間は待っている。そうしたなかで言わなければならないのに言えていないことがどんどん溜まっていく。それらが詰まりを起こして何も言えなくなったのがこの二週間だった。言わなければならないことがあるかのように思わされているけれどそんなものはなくていつも誰かが何か言っているのが身体に入ってきてそれに押し出されて排便するみたいな切迫感を感じながら半ば言わされているだけだ。気の合うひとと面と向かって話をしているときは互いにわたしなんか中空に投げ出してその中空に言葉を差し出して戯れ合っているみたいにものを言うことができるのにSNSだとどうしてこうなるのだろう。常に限界人間量を超えている。それをはやく観たり聴いたりしなければならないような気にさせられている。上映がはじまった映画や漫画はできるだけ早いうちに観て読んでできるだけ早いうちに気の利いた感想をツイートして一年の終わりにはランクをつけなければならないみたいなのにはついていけないしそういう雑誌編集者に任せておけばいいような汚れ仕事をなんでわざわざやろうとするのか訳がわからないと思っているのにエヴァの映画にいまさら数量限定で新しく追加ストーリーの特典冊子がつくという。この産業のこういうところがオタクを厄介にしたのだと思う。

21.06.06

 夜通しで何かしていたあと泥のように眠るとたいてい夢の中でもその音なり声なりが鳴り続けている。映画を観たあとは意味の取れない、存在しないセリフを、俳優がそのひとの話し方で、映画のなかで使われていたであろう言語で話し続けているし、クラブのあとはウーファーが押し出す空気の塊や低音の振動で身体が痺れたまま、誰が作ったわけでもない曲が、ハウスが流れるイベントのあとならハウスっぽいという感じで、丁寧にジャンルまで再現されて流れている。学習したデータベースから自動生成するAIみたいだと思うけれど、脳はそのとき何をその言語っぽさとして、何をそのジャンルっぽさとして認識し、編み上げて、夢の中で鳴らしているのだろう。夜の間中鳴っていた無数の音色やフロウといった音の断片を無意識に拾って分類し、音楽や言語のリズムトラックを抜き出して、それを夢見るときに再構成しているみたいだ。もしこの経過のことを学習と呼べるなら、学習はリミックスみたいなものだと思う。それで疲れは全く癒えることなく時間だけが経ち、昼下がりに目覚めてそのままそろそろ西陽が休日の締めくくりに取り掛かろうとするのを何もできないままただ眺めている。