21.06.05

 5年後になって、あの年の誕生日は何をしていたかと振り返ったときに、今年のことはわりと思い出せると思う。この日の質感みたいなものが残っている。展示で見た写真(の映像)の透明さ、ブラッスリーで食べた白アスパラの甘さ、疲れて寝ながらオールナイトで観た映画の、子どもの目線で垣間見る人生の機微、感情の肌理と、夜中の映画館の倦怠、夜明けの身体の重さと空気の白さ、一日を使い果たしたあとかぶる布団の柔らかさなど。

 写真を思い出せることはよく考えれば不思議だと思う。自分の周りを漂い取り囲んでいる風景のことはほとんど覚えていられないのに、シーンですらないような風景の写真は覚えていられる。今日観た写真はそういう写真だった。細部が細部のまま、捉え難さも含めてそのままいる状態が映ったみたいなものなので、それを言語で置き換えるのは難しい。風景がただあるように映っているのに思い出せる。ひとの記憶や感覚、歴史が漂っている風景のなかにあって、ひとは当惑して、逡巡して、沈黙するしかなくなってしまうけれど、それがそのまま写真の形になることで、その漂流する細部や時間をただあるように受け止めて、自分の記憶や感覚と繋ぐことができるようになってしまう。それはその写真の透明さがもたらす豊かさであるように思う。こういう写真は少ないし、こういうイメージ未満で留めた写真を撮れる写真家も稀で、だいたいはこのように見たい、見せたいという欲が出てしまっていたり、映画などのイメージが張り付いてしまっている。そういう不透明な写真ほど、ほかの写真や映画の記憶と混濁してあまりよく思い出せない。

21.06.04

 東西線が落合を過ぎて地上に出るとまだ明るい。まだ今日が終わらないような明るさで、地下を静かに潜航していた気分がこちらの同意なく晴れる。ひとの乗り降りや窓から差す光や色とともに気分や思考が入れ替わっていく。乗り換えに失敗しながら映画館に向かっていた時間が、「言葉は想像力を運ぶ電車です 日本中どこまでも想像力を運ぶ『私たち』という路線図 一個の私は想像力が乗り降りする一つ一つの駅みたいなもので」と続く、映画のなかで読まれる詩と共振する。同じ駅に止まった別の路線の車両が、発車直後のわずかな時間にだけ並走する。またすぐに離れていってしまう二つの線が、一瞬だけ漸近する。走る電車が向こうに見える橋の上を二人連れ立ち、夜の明けていく速度で歩く。ひとが共にあろうとして言い淀み、躓きながら言葉を交わし合うなかでほとんど奇跡のように偶然到来する時間。この漸近の、この並走の瞬間のためならいくらでも言葉を尽くす。

21.06.03

 洗濯物を乾かしにコインランドリーに行くと、巨大な蜂がいる。蜂を刺激しないように、戻ってきたときにはどうかいなくなっていてくれと念を送りながら洗濯物を投げ入れる。回転が終わり、ドラムの蓋を開けようとしたとき自分のすぐ横にそれがとまっているのを見つけて、思わず飛び跳ねて後退りする。飛び回るそれから逃げ、ランドリーに出たり入ったりしながらそれが遠ざかるのを待つ。監視カメラには奇怪な動きの男が映っていて、それを誰かがバックヤードから見ている。

21.05.31

 同じ車両に乗り合わせた二人がたまたま知り合い同士で、一方が控えめに話しかけるともう一方はわずかに混乱したあとすぐに事態を理解して表情を明るくする、という場面を眺めている。知り合いとたまたま同じ時刻の同じ車両に乗り合わせるということは珍しいことだけれど、考えれば一つの鉄の箱に互いに知らないひと同士が詰め込まれて共に高速移動していることもなかなかすさまじいと思う。この箱がレールを外れたり何かに衝突すれば、たまたま同じ時刻の電車の同じ車両に乗ったわたしたちは共に死ぬことになるだろう。あまりにも暴力的で愛すべき共同性だと思う。

21.05.30

 イメージフォーラムで矢作さんに偶然会う。映画館で遭遇することが多い。約束をしなくても、ここに行けばこの人に会えるかもしれない、という場所がいくらかある。何を話そうかとか頭の隅で考えながら向かうけれど、そういうときは大概誰にも会わず、会うときの多くは不意の遭遇になる。観客席に知人がいるときは、このひとはいま何を、どう観ているだろうかと、自分の目にエミュレートしたその人の視点を重ねて観てしまう。複眼になったような感じがして、ひとりで観るときよりも楽しいと思う。観客席に自分とは違うひとがいて、そのひとたちの視点を借りると目の前にある出来事が何もわからなくなるということが、演劇や映画を観ていて最もスリリングな瞬間だし、それを味わうためにわざわざ劇場に通っている。もちろんひとの視点を借りるというのは不可能なのだけれど、そうしようとすることで自分の目が合わせてしまうフォーカスが弱くなっていって、段々パンフォーカスになる。演劇も映画も、できればパンフォーカスで観たい。