21.06.05

 5年後になって、あの年の誕生日は何をしていたかと振り返ったときに、今年のことはわりと思い出せると思う。この日の質感みたいなものが残っている。展示で見た写真(の映像)の透明さ、ブラッスリーで食べた白アスパラの甘さ、疲れて寝ながらオールナイトで観た映画の、子どもの目線で垣間見る人生の機微、感情の肌理と、夜中の映画館の倦怠、夜明けの身体の重さと空気の白さ、一日を使い果たしたあとかぶる布団の柔らかさなど。

 写真を思い出せることはよく考えれば不思議だと思う。自分の周りを漂い取り囲んでいる風景のことはほとんど覚えていられないのに、シーンですらないような風景の写真は覚えていられる。今日観た写真はそういう写真だった。細部が細部のまま、捉え難さも含めてそのままいる状態が映ったみたいなものなので、それを言語で置き換えるのは難しい。風景がただあるように映っているのに思い出せる。ひとの記憶や感覚、歴史が漂っている風景のなかにあって、ひとは当惑して、逡巡して、沈黙するしかなくなってしまうけれど、それがそのまま写真の形になることで、その漂流する細部や時間をただあるように受け止めて、自分の記憶や感覚と繋ぐことができるようになってしまう。それはその写真の透明さがもたらす豊かさであるように思う。こういう写真は少ないし、こういうイメージ未満で留めた写真を撮れる写真家も稀で、だいたいはこのように見たい、見せたいという欲が出てしまっていたり、映画などのイメージが張り付いてしまっている。そういう不透明な写真ほど、ほかの写真や映画の記憶と混濁してあまりよく思い出せない。