21.06.21-07.02

 何となく日記を書くのがだるくなってしばらく書くのをやめていたらなにを言うにも慎重になってしまってそのうちなにも言えなくなってしまった。日記を書くとき日記のことは書かないようにしようと思っていたけれど調子がおかしいときにそういう自縛をしてよかったことなんかない。頭でばかり考えて動いて心地よい結果になったことなんかない。子供のころなにかを願いながら行動するとき、これはうまくいくはずがない、みたいに望んだのと反対の結果になる想像をするようにしていた。それで準備を周到にするということではなくて、願ったままに欲して行動するとうまくいかなくて嫌な思いをすることが多かったので、それはそういうものなのだとしてまじないをかけるような意味だった。ただのまじないだったけれど、いま思うとそれで頭でっかちになるのをうまくキャンセルして、望んだものに身体を流し込むような感じで、オートマチックによい方へ動けるようになっていたのかもしれない。最終的に身体はなにがよいのか、どちらがよい方向なのか分かっているのだと思う。

 向かいに座っているひとの傘が黄色く、短く、先が丸くなっている。その丸くていかにも無害な先端や制帽とまったく同じ色相の黄色が嫌で、はやく剣みたいに尖った暗い色の傘に持ち替えたくて傘の骨が折れるのが楽しみだった。大学生のころには3,000円くらいのかわいくて強度の優れた傘を3回盗まれた。一目見てわかるような派手な傘をわざわざ選ぶような人間は窃盗業に向いていないので廃業したほうがよいけれど、東京の大学にもわざわざ微妙に高い傘を選んで盗むようなひとがいて、肌がつるつるしていて歯並びがよくてどんなときでもこざっぱりした服を選べて器用にひとと話せて当たり前のように良識を持ち合わせたような感じではないひともここにはいるのだという現実の厚みを感じたけれど、肌がつるつるして歯並びが(中略)持ち合わせたような感じのひとが微妙に高くて柄のかわいい傘をわざわざ選んで盗んでいたらそれはそれで怖いなと思う。そういうひとはそのつるつるのバンドウイルカみたいな身体と盗みたい気持ちをどうやって同居させたのだろう。