21.05.21

 何を見ても何かを思い出す。感じるものをすべていままで感じてきたものとの差分において感じてしまう。すべてのものがただすべて違うだけなのだけれど、そういう風にすべて違うものがすべて違うことの素晴らしさ、その個別性を丁寧に、都度全身で受け止めることやそれができる生活の素晴らしさがやたらと持て囃されていることには疲れてしまう。そんなことをしていたら狂ってしまう。

 本当はすべてのものが似ていて、その違いの幅があるだけなのだと思う。ものから意味を剥ぎ取って、言葉で括られたものがその括りを外されていくと、すべてが異なっていくよりも前に、すべてが似てくる。いきなりただすべてが違うのではない。あなたとわたしが似ているのと、わたしと電柱が似ているのはだいたい同じ程度なのだと思う。そのなかで僅かな差分があって、その差分を拾い上げるために、人は記憶を溜めていく。今日みたいな曇った日の朝の弱い光が縁石に作る陰を見て、とつぜん十数年前の秋の日の夕方に犬の散歩をしながら通った坂道のことを思い出してしまうのは、その坂道の傍の石垣の湛えていた陰と、いま見た陰が似ているからなのだけれど、いま光と縁石と陰を見たことで、十数年前のその陰と犬のこと、坂道の傾斜が記憶の底の澱みから浮かび上がってきて、他でもないそれらがそこにあったのだということをようやく感じられる。そしてそれがまたいま見た光と縁石と陰を、他でもないそれとして浮かび上がらせ、感じさせてくれる。