21.05.26

 道行くひと皆空を見ている。月は雲に隠れて見えない。もしかしたら月は無いかもしれない。それでも皆見ている。それがあると分かっていながらそれが見えないとき、かれらは月から雲をはさんで隔たれ、それに触れられないまま、しかしそれがあると信じるしかなくなる。そこに月の不在だけがある。不在に向き合うときひとはその前で、その無限の隔たりのさなかで宙吊りになり、その空洞へ自らを擲つことを強いられる。ひとは限りなく小さく、限りなく真空へ近づく。その投擲の運動を信仰と呼ぶのかもしれない。隔てられて見えないけれどただあるらしいものに信を投げ捧げる。もしくは、それがそこにただあることを感じ肯定することは、この信なしには成り立たないのかもしれない。

 通信。隔たりこそがわたしたちの通信を可能にする。互いにその存在を直接確かめられないものに向けて、信を捧げ合う行為。ひとはそこにいないとき、そこにいるはずのものがいないのではなく、ただそこにいない。そのひとがほかの場所にいるのかいないのかすら分からない。返信を期待してはいけない。空っぽにならなければならない。ただそのひとがいたという痕跡を依代にして、その人がどこかにいることを信じて、声を送ることしかできない。